手紙の話。

3週間ぶりに職場に戻ると、机の上に薄くほこりがたまり全体的にざらついていた。その上に桜模様の封筒がポンとおかれていた。日本からの手紙である。

手にとって宛先を見ると、おお、見覚えのある字が。差出人を見て、おお、やっぱりと思わずにやりとした。3週間の日本滞在の時に会ったのに全然手紙のことは口に出さなかったことに「ふっ」、となったのだ。書いた日の日付を見ると今年の1月となっている。3か月も前だから、もしかしたらもうとっくについたものと思っていたのかもしれないし、出したことを忘れているのかもしれない。

日本でも何通か手紙を受け取った。私の帰国に合わせて荷物を送ってくれていた友だちもいるし、本当に粋なことをしてくれるんだから。

時は平成。西暦で言うと2016年である。それなのに絶好調でふみを送りあっている。インターネットがあるけれど、やっぱり手紙は送るのももらうのもいいものだと思う。

私は手紙を書くのが好きなくせに、実をいうと本人のもとに届くときには何を書いたのか忘れていることが結構ある。

「犬の話おもしろかったわ~!空腹の話も!!」

と言われても、やべえ、全然心当たりがない……といった具合で、つまり私の手紙には内容がないことが多いのだ。反対に友だちから来た手紙の内容がなくても私は一向に構わないと思う。長い時間をかけていつ届くかもわからないようなものに、特に伝えたいこともなく送りあうなんて最高に贅沢だなぁ、と思う。

この間、友だちとラインで話していたの時に(そう、iPodを持っているのでラインとかも使っているのです。)、「手紙」談義になった。「届いたで」「ありがとう」から始まったその会話の中で、我々は手紙の本質に気づいてしまった。

途中でいきなり友だちが持統天皇の和歌を送ってきた。

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山」
(もう春は過ぎ去り、いつの間にか夏が来てしまったようですね。香具山には、あんなにたくさんの真っ白な着物が干されているのですから。)

これが送られてきて、文面だけを理解したのだとしたら「え?だから何?」である。話し言葉に直すと「春やったのに、気がついたらなんかめっちゃ洗濯もん干してあって知らん間に夏になったねんなぁ、って気づいてん!!」というているだけなのだ。受け取った側が額面だけを読んだら「え?なんなん?」だが、そこにその和歌に費やされた時間はすなわち、受け取る人のことを想った時間と気持ちに相当すると思う。届けたかったのはもはやこの和歌ではないと思う。

和歌はまぁ、必ずしも誰かに充てて読まれるものではないかもしれないけど、その情景を描写しようと思ったのは、記録したい、伝えたい、共有したいという気持ちもあったんではないかと思うと、昔の人も現代人もやってることは大して変わらないんだな、と思う。だから、資料が残っているとすれば、あほみたいな手紙なんか山ほど出てきて、それを公開されようものならもはや公開処刑に値するくらい恥ずかしいものもあるだろうと想像する。

でもそう、手紙を書きたくなる人っているものなのだ。誰でも彼でも書き送りつけているのではなく、ふと手紙を書きたい気分になるときがあって、アドレス帳を開いて住所を見ながら、名前を見ながら、ああ、この人、という人がその時々でいるものなのだ。

一緒に居られない時間を人間観察をしているふりをしてどうにか共有できないかと文字にしてみる。何日間にわたっている手紙もある。ある日はたった2行しか書かず、ある日はまた5行だけ書いてみたり。携帯のメッセージでは出せない空気感というか、良さがそこにあると思う。知らせたいこともないくせに、書かれた手紙ほど、もしかすると一番想いがこもっているのかもしれない。書くことがない、でも手紙を送りたいという気持ちが先行して机に向かって時間を過ごしているのだから。

手紙の本質、それは相手のために費やした時間と、想った気持ちに他ならない、と友だちと私は結論づいた。だからどうか、変な手紙が届いても「だから何が言いたかったんやろう?!」と思わないでほしい。そういう疑問を持つこと自体がナンセンスだと思う。そしてたぶん、そういう風に思う人には私とて手紙は送りつけていないはずだ。

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