Ni modo, así es la vida.

「つらい仕事じゃないですか?」

この間、私が働いている語学学校に短期留学に来ていた大学生の女の子に言われた一言である。

毎週いろいろな人が世界中からやってきて、毎週たくさんの人が国に帰ったり次の目的地に向かって旅立っていく。私の職場は常に出会いと別れの繰り返しだ。当たり前だが、出会いの数だけ別れがある。

老若男女、国籍も年齢も違う人たちがやってくる。もう何度もこの街に来たことがある人もいれば、初めての人もいる。海外に来ること自体が初めての人もいるし、すでに何か国語を操るような人もいる。そういうわけで、出会いの衝撃のほうが大きいので、別れのさみしさというものはあまり感じたことがなかった。

不思議と、さみしいという気持ちよりも、新しい出会いにワクワクする気持ちのほうがはるかに強く、そのとき別れ行く人からも、出会ってからそれまでたくさんの知らなかったことを教わったというありがたい気持ちのほうがいつも断然に大きい。だから、その点においては「つらい仕事だな」と感じたことはなかったので、この質問には正直驚いたのだ。

今までもいろんな場所に旅をして、知り合いができて、友達ができて、大好きな場所ができて、エキゾチックな味に出会って、忘れられない景色を目の前にして、それでもそこにいつまでもとどまることはできず、別れを繰り返してきた。

小さいときは、夏休みや冬休みにおばあちゃんの家に遊びに行って、いつも別れ際が悲しすぎて手を振りながら、電車に乗りながらよく泣いていた。また会えるとわかっているのにその都度の別れが異常に耐えがたいものに感じていたのだ。

そのころから比べたら、別れのたびに泣くようなことはなくなった。自分が大きくなったのもあるし、別れの数を経てきたのもあるし、会いたい気持ちがあればこれが今生の別れにはならないと思えるようになったからだと思う。技術の発達で昔よりも断然簡単に連絡も取れるようになったし、時間がないとかお金がないとかそういう言い訳をしなければ、飛行機のチケットを買っていきたい場所に行けばその会いたい人には会える。むしろ、旅の目的が「その人に会いに行くこと」だって珍しくない。

来週、この街に長くいた日本人の友達たちが立て続けに日本に帰っていく。1年以上いた子たちもいるし、この街が大好きになって一度離れたけどまた戻った子もいる。4人そろってごはんというのは、今回は今日が最後。だらだらと、何をそんなにしゃべることがあるのだろうかと思うくらい、どうでもいいことや、どうでもよくないことを話した。あっという間に時間が過ぎて、別れる時間になり声を掛け合うわけだが、本当に変な感じだった。

毎日一緒に過ごしたわけではないから、来週以降も会わない日でもまだこの街にいるような気がするんだろうな、と思った。またすぐに会えるという確信があり、「別れ際なのでとりあえず別れの言葉を言っておかないとな」と思いながら「ほんなら……」と言葉を探したけど、現実味もわかないので、結局同じ話を繰り返すという、日本人の別れ下手な感じを自分でも感じていた。

何事も永遠に同じには続かない、ということを知りながら、でも普段はそれを考えないようにしているから、今がそれを実感するときなのだ、と突きつけられても、信じられないという気持ちだけが渦巻くので、なんだかぐだぐだで、結局4人の口から出てくるのは

「Ni modo, así es la vida.」

という、メヒコ人が本当によく使うフレーズばかりである。

「しゃあないよな、それが人生だもんな」

決してネガティブな場合のみに使われるのではないのが、この言葉の持つ最大の魅力だと私は思っている。

例えば別れの時、別れたくない、ずっとこのままやったらいいのにな、でもそういうわけにはいかない。という矛盾した、整理するのが難しい気持ちが自分の中にあるとする。でも、それは「ni modo」、仕方のないこと。それぞれみんな次のステージがあり、いつまでもとどまることなどできないし、ある意味、とどまり続けることのほうが面白くない方に向かう恐れだってある。だから「así es la vida」、それが人生だという。つまり、いいことも、悪いこともすべてを受け入れることが大事だということである。

認めるというのは簡単そうで、実はなかなか難しいことだったりする。違いを認識したうえで、それを受け入れるというのはかなりの懐の深さを要求される。

メヒコに住んでいると、本当にこのフレーズを聞くのだ。関西弁の「しゃあないやん」にとても似ていて私はそれがものすごくすとんとなじむ。一応文句も言ってみるけどそのあとに「あぁあああ、でもしゃあないかーーー」と声に出し「ちゃう方法考えるわ」とポジティブな感情につなげられるのである。

日本人でも関西圏以外の人はこの「しゃあない」という感情を理解するのが難しいというのを他府県出身の日本人たちから聞いて驚いたことがあるので、「私はなんかメヒコになじむなぁ」と思っていたのは関西の気質と似ているというのも大きな理由かもしれない。関東では「仕方がない」というと決してポジティブにはならず、あきらめの気持ちしか伝わってこないのだそうだ。

今日会っていた友達の一人が「(スペイン語圏の)ドミニカとキューバではni modoは使われていなかった」と言っていたが、ただの方言なのではなくて、「しゃあないから、まあええか」というこの感覚自体がメヒコにしか存在しないのかもしれない。

メヒコに暮らしてこの国の「何か得体のしれない魅力」にはまっていっているのは否定のしようがないところだが、この得体のしれない何かは「包容力」なのではないかと最近では思っている。アミーゴの国とも形容されることもあるように、メヒコ人はすごく気さくに温かく受け入れてくれる。だからなのか、暮らしていて「不便だな」と感じることはあっても「暮らしにくいな」と感じることは不思議とないのだ。

住む年月が長くなるにつれて、やっぱり強くなる気持ちは「このへんてこりんな面白い国のことをもっとたくさんの人に知ってもらいたい」に尽きる、改めてそのことを考えていて、メヒコに長く留学していたあの友達たちも、みんなメヒコの包容力に包まれてこの国のとりこになっていたのを今日目の前にして、なんか「やっぱりそうなるよなぁ」とにやけてしまった。そして、来週の別れの週のことを信じられずにいる。備忘録までに。

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